01 着ものがたり
Kimonogatari
糸を作る、布を織る、着物に仕立てる
暮らしの基本がここにあります
糸を作る、布を織る、着物に仕立てる
暮らしの基本がここにあります
着物は成人式に着るだけ、という人がほとんどで、縁遠いと思うかもしれません。しかしそれは、現代の話。
洋服が普及するまで着物は日本人の衣服だったわけですが、こことおかまちは、古代の布作りを経て、その後全国有数の着物の生産地になりました。
ことの始まりは、半年間、雪に閉ざされる農閑期に家族のために糸をつくり、それを織って布にしたことにあります。
雪深い環境がもたらす布作りに最適な湿度と黙々と根気強く作業に向き合うこの地の人々の気質にマッチした布作りは、いつしか生活の糧になりました。
担い手である女性たちが、人生を賭して心血を注いできた織物は、明治期以降、とおかまちの大切な産業になり、この街だからこそできる美しい染めものや、織物を生み出さんと、今でも多くの職人たちがしのぎを削っています。
それが成人式のハレの日を彩る着物として人生の節目のお祝いに花を添えているのです。
時代は変われど、ものづくりに取り組む職人の技と心意気はとおかまちに息づいています。
千年の時を超えた本物が持つ輝き ―豪雪地の着ものがたり―
日本列島ではカラムシなどの植物繊維を素材とする編布の伝統が縄文時代から続いていましたが、中世の法衣を最後に途絶えたといわれ、長らく「幻の布」といわれていました。しかし、全国でも十日町市周辺にのみ「アンギン」等の名で残存し、主に農民の作業衣として近世まで製作・使用されていました。最後の作り手といわれた人からの聞き取りによって奇跡的に製法が復元・伝承され、現在も編み継がれています。
一方、越後では古代からカラムシの繊維でつくる「青苧〔あおそ〕」を材料とした上質な麻織物「越後布」が生産されていました。戦国時代、青苧や越後布は上杉氏の度重なる戦の費用を賄う重要な財源でした。江戸時代になって越後布に改良を重ね、より高い付加価値を生み出したのが特産品「越後縮」です。越後縮は将軍家や大奥などでも愛用されました。主産地であるこの地域には縮市が開設され、京、大坂、江戸から商人が盛んに出入りし、取引の中心地として大いに栄えました。
越後縮は一反を織るのに数ヵ月もかかります。外仕事のできない冬の間、辛抱強さで知られた越後の女性たちの繊細で地道な手仕事によって、美しい文様の夏物の布が織り出されました。雪国の冬は湿度が高く、乾燥を嫌う青苧を扱うのに適しています。また、糸や布を漂白するための「雪晒し」の工程は、春の晴天時に雪の残る豪雪地でなくてはできません。越後布・越後縮は、まさに豪雪地の地域性を存分に生かしたブランド品だったのです。
江戸時代末期、十日町でも絹織物が生産されはじめ、養蚕も盛んに行われるようになりました。明治期になると生産の主流は青苧の麻織物から生糸の絹織物へと劇的に転換します。そして農家の副業から工場制の工業へと生産構造の変革が起こり、現代に続く絹織物産地としての体制が確立しました。この革新の原動力となったのは、豪雪によって育まれた人々の苦難に負けない忍耐強さと、時代のニーズを捉えより良いものを生み出そうとする意志の強さでした。それが現代の十日町市のきもの産業の礎です。
日本遺産「究極の雪国とおかまち ―真説!豪雪地ものがたり― 」の
ストーリー全文はこちらから
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